狭い思いをしました。ときには「この子と一緒に死にたい」と思うことがありました。でもあのとき、小児結核であれば命を拾ったことになります。そんなことを考えれば心中するなど大それたことはできません。
学校も三十三年ごろですから先生も少ない時代です。全ろうと難聴を分けることができないので、みんな口形で教えてもらい親は何も言うことができません。補聴器も不用になりました。
私の家は田や畑があり、農繁期には朝早く学校へ行く時間まで田に出て仕事をして、時間がくると白転車で子供を後ろに乗せて四十分ぐらいかかって行きます。毎日、親と子が同じように勉強をしました。
言葉と声の出し方が難しく、「あいうえお」の「あ」の一字でもなかなか声になりません。私の喉と自分の喉に手をあてて、声が出ているかは手の感触で覚えます。
一日、学校で覚えたことは帰ってから復習をします。田の仕事はそれから暗くなるまでやりました。若いからできたことと思います。少しずつ「あいうえお」から五十音を覚えるのですが、きれいに出る声とわかりにくい言葉があります。一応覚えると、日常使う短い言葉を覚えます。川に行けば水、メダカ、魚、カエル、田んぼに行けばレンゲ、タンポポ、ツクシといった短い言葉で声を近づけます。それを毎日繰り返すのです。
学校へは三年ぐらいついて行きました。一人で学校へ行けるようになって今度は買い物です。田舎では手話は通じません。隣に八百屋さんがあったので、あげ、ちくわ、簡単な物を買
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